志賀町むかし地名について 

◇「新・志賀町むかし地名」へ―コラム④

小字地名と太閤検地―コラム③

柳田国男と谷川健一―コラム②

岡部修さんの『志賀町地名辞典』―コラム①

このサイト「志賀町むかし地名」は、「小字名」をあつめた原本「志賀町地名辞典」の内容を、そのままネットに登載したものです。

これをさらに発展させて、ネット上の「新・志賀町むかし地名」サイトをつくることをめざしています。ネットなら、画像を含めてたくさんの情報を収容することができます。

「小字」以外にも、志賀町の「むかし」がわかる「地名」や「地物」として、「新・志賀町むかし地名」に載せたいことは、まだたくさんあります。

たとえば手近なところから、次のようなことが考えられます。

①「志賀瑣羅誌」「土田の歴史」「志賀町史」その他の郷土文献のなかに、原本にのっていない地名があれば、それを拾いあげる。まず、室矢幹夫さんが収集して『角川地名大辞典』にのせた地名で、岡部さんの原本にないものを、収容すること。

自然地名(山、谷、川、潟、峠など)を、体系的に拾いあげて、簡潔な辞書的な定義をあたえる。

③小字中心の原本が省略している、行政的な歴史地名や地域名、たととえば土田庄、四ヶ郷、堀松村、末吉など。

④交通はむかしの人のくらしをイメージするためには、基本となる要素なので、旧道、船着き場、港その他を体系的に調べる。

⑤むかしのひとは、各集落内に多くの石碑をのこしています。神社跡碑、お題目碑、慰霊碑、唐戸山大関、土地改良記念など、子孫や遠近の人たちに、これだけは生きた証、郷土の誉れとして知ってほしいとそれらをのこしたのですが、通りすがりではその由来を知ることができません。

「地名」「地物」という角度からむかしを考える、というこのサイトの趣旨を、はなれないようにしながら、文化財、神社、仏閣、祠堂、遺跡、古墳、伝説地、名勝などの採録も考えていく。

⑦それらの事項は、自然地名、遺跡、小字、歴史地名、文化財などの分類を工夫しながら、スマホでもパソコンでも検索できるようにする。データを電子化する大きなメリットは、検索が容易になることです。

あたらしい地名・地物名を採取すること、「辞典」としての統一感も必要ですから定義や説明の原則をたてること、写真などをどうするか、電子化とネット収容にともなういろいろな問題、たとえばグーグル地図との連携――。そのようなネット版「新・志賀町むかし地名」の基本設計も、名称採取と並行して進めなければなりません。

『志賀瑣羅誌』の尾佐竹猛や、『土田の歴史』の芳岡良音さん、『志賀町史』の室矢幹夫さんら偉大な先人の足もとにはおよびませんが、こつこつと、協力して、ネットを利用しながら、

「小さな石」を積み上げることは、ぼくらでもできるもしれません。

新・志賀町むかし地名

への、みなさまのご協力をおねがいするしだいです。


豊臣秀吉が全国を統一して、田畑や宅地の一筆一筆を、検地帳に登録したときに、小字地名が、はじめて正式の地名になりました。このときに、新しく作られた小字名もあります。

小字としての名前、面積や持ち主などを書いた検地帳の写しは、年貢支払いの台帳として、村方でも保管していました。

ただし、年貢は村つまり今の集落単位で一括して納入を請け負いますから、一筆一筆の土地の区切りや呼び名は、しだいに台帳とは、食い違いも増えていきます。

明治になり、政府は農地の売買を自由化し、まず検地帳と照合する形で「地券」を発行します。

地券には土地の場所が、小字名で書かれました。

しかし不正確な昔の検地帳では、問題が大きかったので、明治六年からは地租改正の大事業に着手しました。

一筆ごとに田、畑、宅地の測量をして、連続した地番をふり、地図も作るという大事業で十年近くを要しました。

この地租改正によって、小字名は、イ、ロ、ハあるいは甲、乙とか1、2、3という番号に置き変わります。

岡部さんは、役場にある地租改正以後の、公図とよばれる土地台帳の地図をもとに、各集落をまわって地元の人に尋ねたり、区の保管文書を参照して、むかしの小字地名を復元したのです。

ただ地租改正のさい、地番整理に当たっては、便宜によって小字の範囲を統合したり、分割したりしていますので、面倒なこともあったはずです。

こうして、旧志賀町の、上熊野、志賀浦、土田、堀松、中甘田、加茂、下甘田7村と高浜町の1町、あわせて8つの校下の54集落の、3,000をこえる小字名が復元されました。


明治の末から大正にかけて「地名の研究」と題する論考をつぎつぎと発表して、民俗学の立場からの地名研究のみちを切り開いた柳田国男(1875-1962、写真)は、「人生を明らかにすることが,実は地名を研究する唯一の目的である」と述べています。岡部さんも、この言葉にはげまされて、苦労して郷土の地名をあつめたのかもしれません。

以下は、関戸明子「地名研究の視点とその系譜」(1988.3歴史地理学 http://www.hist-geo.jp/img/archive/140_2.pdf ) から、引用したものです。引用開始――

柳田国男の『地名の研究』とその位置づけ

まず,先駆者である柳田の地名に対する考え方をあとづけておく。

柳田は,地名とは「要するに二人以上の人の間に共同に使用せらるる符号であると述べ, 地名は我々の生活上の必要に基いて出来たものであるからには,必ずーつの意味をもち,それが又当該土地の事情性質を,少なくとも出来た当座には,言い表して居ただろう」と推測し, 白然に発生した地名は始めから社会の暗黙の議決を経ている。

従ってよほど適切に他と区別し得るだけの,特徴が捉えられて居る と考えている。ゆえに,地名が命名される際の「或言葉を或地形に結び付けた最初の動機」を究明することによって, 人が山川原野に対して古来如何なる態度を以て臨んで居たか」を知ることができるとする。

地名の成り立ちについては,’実際は多くの新しい普通名詞も同じ様に,誰もがそう呼ぶより他は無いと感ずる名がただ一つあって,それに気の付く力が昔の人は至って鋭敏であったのである。

何にもせよ使用者の要求を代表せず,群の生活に相応せぬ地名は記憶せられて永く残る筈が無かったと説いており,それゆえに,当時の人々の生活を推測できるのである。

そして,『地名の研究』の序の中で,地名を裏付けしている「人生を明らかにすることが、実は地名を研究する唯一の目的である」と述べている。

ここに柳田の民俗学の立場からの地名の研究の特色があり,単に地名の語源の考証をするだけに留まらず,住民の生活史を明らかにする手がかりとして,地名を重視しているのである。」――引用終り


民俗学者の谷川健一(1921-2013、写真)も、次のように言っています。昭和59年に、熊本日日新聞に掲載された「地名は郷土の魂」という文章の一部になります。引用開始――

「私は郷土研究の第一歩は地名教育から始めるべきである、と思っています。

小、中学生に限りませんがまず地名の勉強をさせ、そのために地名を実地に検証、踏査させるならば、おのずと土地の地形が分かり、その土地を開拓した足跡が辿れ、また人々の営為にまつわる伝承を聞き取ることができます。

さらにはその土地と周囲とのつながりに心を配り、書物と照らし合わせて土地の遥かな歴史を身につけることも可能なのです。

学問が机の上だけのものじゃないこと、それを実感として知るには地名教育は最上のものであります。」――引用終り

1981年、谷川さんは川崎市に日本地名研究所を設立され、同所では、現在の第4代所長金田久璋先生にいたるまで、初代谷川健一所長の遺志を継ぎ、学際的視点から地名研究をしており、全国の地名研究の団体や個人会員が地名を通して研究調査を行っていることの、センター的役割を担っています。その成果を毎年、全国地名研究者大会を開催して情報交換を行っています。

わたしたちの「志賀町むかし地名」プロジェクトは、同研究所の所長、金田先生からの声援メッセージをいただきました。ツイッターに掲載してあります。


岡部修著「志賀町地名辞典」は、合併前の旧志賀町の地名、おもに小字地名をあつめた本です。

小字というのは、ガマダ、カマツボ、セドヤマとか、ゲンナイダとか、ヒヤチとか、フクノダとか、昔の人が生活の必要から、地面の特定の場所につけた名前です。

田んぼが大きくなり道も真直ぐになったりして、今ではあまり使われませんが、小字名は郷土の歴史と、ご先祖の暮らしを知るための、だいじな手がかりなのです。


著者の岡部修さん(1922-2015)は、教職をしりぞいてから、町の文化財審議委員をしていたとき、たまたま町内各集落の小字地名を調査する仕事の担当になって、十年近く調査して、平成九年1997年に、この本を完成しました。
手書きのコピー印刷、B5版で164ページ、内容は、3200以上の地名と、各集落ごとの詳しい地図があります。


 

ちなみに、1981年発行の『角川日本地名大辞典7石川県』では、志賀町の小字地名として、あげられているのは721件でした。しかも、岡部さんは、地図までつくられていて、じつに、全国的にも例のない、貴重な業績になっています。

このサイトでは、まず岡部さんの「志賀町地名辞典」を、どなたにも利用できる形で、忠実に、インターネット上に載せることとします。

岡部さんの調査の経過、資料などは、地名倉庫excelの5枚目のシートを開くと、みることができます。